園や学校で最近問題になっている「完食指導」。もったいない、という日本人の感性を大切にしながら、子どもたちがトラウマにならないような指導について色々な意見が出ています。
食の現代史が専門の京都大学人文科学研究所准教授である藤原辰史さんは、「幼稚園のときの完食指導が今でもトラウマ」と語っています。藤原さんに「食と教育のもっと幸せな結びつき方」についてお聞きしました。
(※2024年3月22日(金)朝日新聞朝刊の記事を参考に要約しています。)
京都大学准教授・藤原辰史さんの体験談と食育への意見
嫌いなものを残すことへの「罰」として、掃除の砂ぼこりが立つ時間まで席に残され、先生に小言を言われ、友達に白い目で見られながら責め立てられる――まるで大人公認のいじめのようですよね。無理に口を開けて食べ物を突っ込むというのは、私は体罰だと考えています。
実は私も苦労しました。いま、何でもほぼ食べられるのは「給食の体罰」のおかげかもしれませんが、ナスの煮浸しやグリーンピースご飯など、苦手なものがたくさんありました。
幼稚園の給食の光景はいまでも忘れられません。えんじ色の弁当箱のふたを開けると、いかにも自分が嫌いそうなおかずが入っていて、座ったまま「食べられない、食べられない……」とうつむいていました。だんだん休み時間がなくなり、みんなが遊びに出て行き、先生が私をじっと見ている。その空気がつらかったです。
さいわい、私自身は無理やり口に入れられることはありませんでしたが、いまでもトラウマです。
給食の完食指導に対する異議と新しい食育の提案
その「完食指導」のトラウマを「給食の歴史」(2018年、岩波新書)の冒頭に書いたところ、東京大空襲を経験した読者の方から抗議の手紙が届きました。「戦争で飢餓を体験し、給食はあるだけでありがたかった。戦時中の人の気持ちをくみ取るべきだ」とのことです。
私たちは戦後、いつの間にか飽食の時代を生きるようになりました。食べ物を残せるのは、人類の歴史を考えても非常にまれなことです。出されたものをできる限り食べるのは、もちろん大事です。
しかし、それが暴力という形で強制されてはいけません。暴力によって完食を強制することや人を従わせることは、それこそ戦争の発想と同じです。これではかえって子どもたちが食から離れ、飢餓の記憶を引き継いでいく意欲さえ失ってしまいます。
本当は、もっと食と教育の幸せな結びつき方ができるのではないでしょうか。たとえば、嫌いなものは誰かに食べてもらう、少なく盛りつけてよい学校もあります。誰かが食べることで残飯ゼロを目指すべきです。完食はあくまで結果であり、目的にしてはいけません。プロセスを充実させるべきです。
農家や漁師など生産者と一緒に給食を味わう機会を持つこともいいですね。家庭科の時間を増やして、自分の作ったものを誰かに食べてもらう経験を重ねるのも効果的だと思います。食べ物を通じて理解し合うことを重視する指導にシフトすることで、自然と食べられるものが増えていくのではないでしょうか。
給食の質と教育モデルの改善について
現在の給食には、先生が子どもたちに食べさせるという極めて単純な教育モデルがはびこっています。子どもが垂直的に従うことが求められる完食指導やそれに伴う体罰は、受験を頂点とする教育システムの限界でもあると考えています。
さらに、子どもたちが本当に「おいしい」と感じる給食を提供してこなかった歴史にも大きな問題があります。給食の質の格差も広がっています。
1980年代に政府が給食を大量生産するために推奨した「センター方式」は、給食センターから複数の学校に給食を配送する方法です。校内で調理する「自校式」だとコストがかかるため、効率やお金が優先されました。しかし、センター方式では午前10時半には調理を終え、約1~2時間かけて各学校に配送するため、味が落ちてしまいます。
調理員の方々によれば、大規模な調理では効率性を重視して食材を機械で切りますが、食感の違いから「人の手で切ったほうがおいしい」と言います。成長中の子どもたちこそ、手間のかかった良質な食べ物を食べる権利があります。できる限り農薬にさらされず、地元で作られたものを食べさせてあげたいです。
また、「医食同源」という言葉があるように、土が健康であることと体が健康であることは密接に関係しています。給食という大量に食物が供給される公の場こそ、そうした農業と食のあり方が実践されるべきではないでしょうか。